トラニストア クラトニア 歴史

クラトニア王政(トラニストア連合王国)バロム・トラン国王政権

ラニストア連合王国は、ディルタニア・カイバー圏の殖民地域を失っていた。
SISAへの加盟によって多額の経済支援等により資本主義は急速に成熟していき、
それの最たるものがホテル系財閥による経済支配である。ディルタニア系クラトニア人や貴族出身の多くの資本家がホテルを沿岸部に次々と建設し富を築き、多種多様な業種の企業を買収して経済の寡占化を進めていった。
その結果、貧困層と富裕層・労働者と資本家の格差は至上最悪なまでに広がっていった。
行政大臣の任命権を国王が持ち、立法権は王国元老院が国民の選挙で選ばれた議員達が保有していた。当時の最大与党が国民運動党である。
国民運動党は貴族出身者の議員が多く王党派であったことから、国王の信頼も厚かった。
また当時の国際的紛争に関しては中立的な立場の政策を執っており、オーファン戦争時は資本主義陣営ながら中立を守るなどしていた。
メトラ教は貧困層・労働者層の間で爆発的に広まった。また国民運動党は元老院での議席のためにメトラ教をメディア等で大きく報道し、国民からの支持獲得にも利用していたことがここまで広がる
要因のひとつである。このように大きく躍進し国際的地位も高まったと同時に国内では至上最悪の格差社会
招く一時代を作ったが、ロスト・アルテミニスにより、国家は亡国の危機へと晒される。



クラトニア共和制 パーチノッティ大統領政権(初代・ニ代)


ロスト・アルテミスにより国王が死亡し行政や元老院も動かない中、再開発機関という組織が設立される。
それはドゥーク・パーチノッティを中心としたトラニア半島復興のための組織であった。
この活動により、中部・南部地方は次々に回復し、災害前の水準まですぐに立ち直った。しかし。北部はそう簡単に復興することはできなかった。
ドゥーク・パーチノッティの活躍はしだいに国民の心を掴み復興の英雄と呼ばれるようになる。
再開発機関は王族の国外逃亡、王都の機能停止などを理由に、ウォルターコートを首都に改め、共和制へと移行することを宣言し、第1回大統領選挙を行った。
結果は圧倒的な支持を集めたドゥーク・パーチノッティ氏が大統領に就任。その後立法評議会選挙ではパーチノッティを党首とするトラニア労働者党が第一党となった。
立法評議会では、クラトニア第一共和憲法の制定、財閥解体のための諸法、民営企業の国営化の法律、など多くの急進的な法案を可決させ、急速に脱王政・先進共和国へと発展させた。
また社会保障制度の充実や、積極的な経済に対する政府の介入などで、国民の貧富も以前よりは緩和される形となり初期の数年は大きな成功を見せた。しかし、後期は急速なる市場開放路線を進め、"名ばかりの労働者党"と呼ばれるなど、しばしば外国から非難されたりした。
対外的には反旧SISA的な外交姿勢を見せて、三洲陣営との国交樹立は遅れ、逆に共産圏のヤードゴニエや神州民共和国などと貿易協定を締結するなど、親共産姿勢を強めていった。
またエルテメルカーン、ファーレラント、リタエル、ガーベンディリア、ユールメシド、東洲皇国、スピリックスなどの親クラトニア国家をクラトニアの経済影響圏へと次々と引き込み一大陣営を築いた。ドルンツェ国家経済連合はまさにその象徴である。